母と娘

【小説】ジユウな母とオクビョウな私 #32 恋する時間(2)

  • 更新日:2019/11/07

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#32 恋する時間(2)

 たとえばなに? と訊かれれば、答えにつまるくらい、地味な用だとしても。

 土曜日、天気がよかったので洗濯物をベランダに干してから散歩に出た。もんじゃストリートで人気のパン屋さんに寄り、アップルパイを買う。近くのスーパーで小さな紙パックのジュースも買うと、大きな橋のほうを目指して、ぷらーりぷらーりと歩いた。

 それが私の用だった。

 週に一度はそんなふうに、自分ひとりの時間を過ごしたくなる。

 特に実家に一度帰ると、やっぱりだいぶ疲れる。

 ゆっくり回復の時間がほしくなった。

 今回はそんなに家事を押しつけられたわけではなかったけれど、それでも鳩の巣のことくらいで呼び戻された不満が残ったし、なにより母の相変わらずの適当な暮らしぶりと、知らなかった恋人(らしき人)との対面、全体に落ち着きのない、わさわさした街の空気に当てられてしまった。

 昔なじみの太陽たちに会えたのは嬉しかったけれど、彼らの遊び方にしたって、いかにも地元住まいの仲間といった様子で、もしこれからも毎週誘われつづけたら……と考えれば、正直ちょっと気が重い。ふだん近くにいない私のことなんて、もちろんすっぱり無視してくれたらいい。


 幅の広い、たっぷりの水をたたえた川の向こうに、高いビルが並んでいる。

 光る川面を水上バスが行く。あちらからは、流線型の洒落たデザインの船が静かに進んでくる。

 リバーサイドのテラスには、首とくちばしの長い、大きなサギが一羽たたずんでいる。最初見かけたとき、一体なんの鳥だろうと慌ててスマホで調べたのだった。羽の色からすると、あれはアオサギだろう。

 テラスのベンチに腰をかけ、手を拭い、パイにかぶりついた。ストローを刺した紙パックのジュースを飲み、雲のずいぶん少ない、青い空を見上げて目を細める。

 私の育った界隈とは、同じ東京でもずいぶん景色が違う。

 暮らしの場に、こんな息抜きの風景があるのが新鮮だった。愛しくても、ごちゃっとした街中で育ったせいだろう。


 もう一度手を拭うと、今度はバッグからクロッキー帳と筆記具を取り出した。子供の頃から、絵を描く時間は大好きだった。図画や美術の時間、先生や友だちにもよく誉められたし、母にも認められた。イラスト部に入ったこともある。将来は絵に関わる仕事をしたい、と思った時期もあったはずなのに、やがて忘れてしまった。

 ……どうしてだっただろう。


(つづく)



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■ジユウな母とオクビョウな私|バックナンバー

第27話:ベランダの鳩(27)


第28話:ベランダの鳩(28)


第29話:ベランダの鳩(29)


第25話:ベランダの鳩(30)


第31話:恋する時間(1)



  • 藤野千夜 (小説家)

    1962年2月生まれの魚座のB型。 2000年に『夏の約束』で芥川賞受賞。 著書に『ルート225』『君のいた日々』『時穴みみか』『すしそばてんぷら』『編集ども集まれ!』など。

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