母と娘

【まとめ読み2】ジユウな母とオクビョウな私 7話~16話

  • 更新日:2019/05/30
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ベランダの鳩(7)~(16)

 駅前のロータリーをぐるりと回り、飲食店の多い路地へ入ると、いつもの地元の匂いがした。

 深夜まで開いているベーカリー。昔ながらの定食屋さん。ケバブが名物のトルコレストラン。チェーンの焼鳥屋さん……お店はときどき入れ替わっても、狭い通りの両側に、小さな店舗がいくつも並ぶ様子にほとんど変化はない。

 にぎわう立ち飲みバーの角を右に折れてすぐ、レンガ造りの茶色いマンションに私の家はある。

 そちらの脇道も飲食店の多い通りで、少し下がって建つマンションの一階にも、ビストロやバルといった、しゃれた雰囲気のお店が何軒か入っている。住居への入口はその奥、中庭にも見える店前のスペースの向こうにあった。

 そこからエレベーターに乗り、三階のボタンを押す。

 会社を出るとき、あらためて母に連絡しておかなかったのは、だいたい七時前の、無難な時刻に帰れそうだったのが一つ。もう一つには、やっぱり無理に呼び戻されたことへの不満が残っていたのだろう。

 帰るの? 帰らないの? と少しは母にやきもきしてもらい、そこに恩着せがましくも、颯爽と登場したい。そんな子供っぽい期待が、私の心の片隅にはあった。

 でも、そんな勝手な期待に、あの母が応えてくれるだろうか。


 玄関に出しっぱなしのたくさんの靴を、えいっ、とまたいで家に上がり、居間に入ると知らない男女がいた。

 ごっちゃりとモノが載ったテーブルを無理に片づけ、隙間につまみと缶ビールを置いて、酒盛りをしている様子だった。

 誰? と訊きたいのをこらえ、

「こんばんは」

 まず私が挨拶をすると、五十歳くらいだろうか、ワイシャツにネクタイをしめた男性が、

「こごみちゃん? おかえりなさい」

 にこやかに言う。女の子のほうは学生といった年頃で、缶ビールを片手にほんのり赤い顔をして、「おかえり~!」とすでに友だちの口調だった。

 さて、誰がこの状況を説明してくれるのか。

 昔から、たまに謎の飲み会をしている家だったけれど、どうして私は、会ったことのない二人(だけ)に迎えられているのだろう。

 と、キッチンから母が出て来た。

「あ、こごみちゃん。帰って来た? 食べる? 爆弾おにぎり」

 手にしたプレートには、確かに「爆弾」と呼びたくなるような、黒光りした丸いかたまりが山盛りになっている。

 レトルトを利用した炊き込みご飯を大きく握って、それを軽く火であぶった海苔一枚で、がしっと包む。

 それが母特製の「爆弾おにぎり」だった。

 普段あまり料理をしない母だけれど、そのおにぎりはよく作ってくれる。炊き込みご飯の素は、業務スーパーで特価販売しているのをだいたい買って来るから、そのときによって中身の具は違う。今日はあさりの炊き込みご飯だった。

「あんたの好きな煮玉子もあるよ。食べる?」

「食べる」

 私は即答した。その煮玉子は、母の手料理では最近のヒット、はずれなしのおいしさだった。

「あと三個しかなかったから、うまく分けて」

 よい色の煮玉子を二つに割って、三個分、一つの器で運んで来た。かつおだしの香りがほんのりとして、黄味の中心がとろりとしている。

 いただきまーす、と参加した男女も、

「おいしい、これ」

 と同時に言った。特に女子のほうは不思議そうに、「どうしたの、これ」とまで訊く。

「作ったの。すっごく簡単。土井先生のレシピ。ふつうに半熟玉子を茹でて、汁に漬けておくだけ」

 あまり料理をしないわりに、母は料理研究家の土井善晴先生の番組を見るのが好きだった。よくHDに録画して、深夜に見ている。

 ばたん、と大げさにドアを閉めて、弟のわらびが帰って来た。近所の中華屋さんに、餃子を買いに行っていたらしい。

「なんだ、姉ちゃん。帰ってたのか。だったらついでに買って来てもらえばよかった」

 わらびは不満げに言い、ちぇっ、と舌打ちをした。白いレジ袋をぷらんと提げている。

「なにそれ、感じ悪い」

「だって、駅からすぐじゃん。連絡くれた? くれたら、俺がわざわざ買いに行かなくてもよかったはず」

 わらびは首を振り、レジ袋の置き場を探していた。女の子がテーブルに積んであったパズル雑誌を素早く床に下ろして、スペースを作る。よく息が合っているけれど、せっかくだからお皿に載せようと私が受け取り、キッチンに向かう。3割うまい、がキャッチフレーズの、チェーンの中華店の餃子だった。

「姉ちゃんが……いたのか……」

「は? しつこいね。わらびが自分で言ったんじゃん、じゃんけんに負けたら、俺が満洲に餃子を買いに行くって」

 私の代わりに文句を言ったのは、おでこと頬がつるんとした女子だった。まだ名前も聞いていない。「本当に負けたからって、いらつくってどうなの」

「……ごめん」

 と、わらびが素直に謝るのが聞こえた。


 わらびが買って来た満洲の餃子をお皿に移し、それを食卓に運んでから、私はベランダのほうにぷらりと歩いた。

「どうしたの?」

 母親に訊かれ、「鳩の巣……」と振り返って答えると、「そんなの明日でいいでしょ。今日はもう暗くて見えないから」と笑われた。

「あの子たちだって、きっともう寝てるし」

「あの子たち?」

「いいから。料理があたたかいうちに食べなさいって」

 言われた通り席につき、グラスにビールを注いで、一口くいっと飲むと、

「こごみです、母と弟がいつもお世話になっています」

 私はあらためて告げた。だってここまで誰も名乗らないし、誰も紹介してくれない。私が動かない限り、もうこのままだろうと思ったのだ。

「あ。くひほほっふ」

 と、若い女子が爆弾おにぎりにかぶりつきながら言った。

 さすがに今の発音では通じないと思ったのか、けふっ、と小さく笑い、ゆっくり口の中をカラにしてから、くにもとです、と丁寧に言い直した。今日はじめて聞く、彼女の丁寧語だった。

「先週バイトやめて無職なんで、今、わらびと一緒にパワースポット巡ってます」

「パワースポット?」

「やめろよ、そういう冗談。姉ちゃん、本気にするから」

 顔だけは可愛い弟が、生意気なことを言った。かわりになにか説明するのかと思えば、たっぷりタレをつけた餃子を一つ頬張り、幸せそうに噛みしめている。

「え、知らないんだっけ。くにちゃんのこと。会ったことない?」

 こちらは完全にマイペースな母が、自分用の焼酎お湯割りを作りながら言った。「もともと私がなつかし屋さんで知り合ったんだよ。通りのあっちにできた雑貨屋さん。くにちゃん、若いのに昭和歌謡が好きだって言うから、じゃあうちに聴きにくればって。奥村チヨもオックスもあるよって」

 年の頃から言って、わらびの学校の友だちかと簡単に思っていたから、母のほうの知り合いだったと聞いて少し意外だった。

 でも、とにかく近所に知り合いの多い母だったし、趣味は、エスニック系やレトロ系、サブカル系や不思議ちゃん系など、近所に数ある雑貨店を巡回して、よくわからない置物や楽しい柄の布なんかを買って帰ることだったから、その行動範囲にくにちゃんがいたのだろう。

 この家の雑然とした様子は、住む街の景色に似ているのかもしれないとも思った。

 部屋にあふれているものの多くは、母にしてみればそれぞれがこだわりの品で、決してガラクタではないらしい。だから掃除を任されても、不用意になんでもゴミ扱いすれば、案外きつく叱られることにもなる。

 つまり、面倒くさいのだ。

 最近のお気に入りは、メキシコのプロレス、ルチャ・リブレの覆面レスラーたちがコミカルに描かれたグッズみたいで、メラミンプレートやお椀といった食器がキッチンに一式揃っているし、同じレスラーたちのプリントされた黄色い布が、すぐそこのソファのカバーに使われている。

 そういえばこれは何年か前からだけれど、洗面所のマットにも、大きく覆面レスラーの顔が織り込まれていた。もちろん、単に格闘技が好き、というわけではなくて、母はそういったゆるいグッズに目がないのだ。和皿にはたいてい、古い漫画のキャラクターが絵付けされている。

「それより姉ちゃん。土産は? 日本橋のおいひいものは?」

 二個目の餃子を口に入れながら、わらびが言う。

「ないよ」

 私が答えると、目を見開き、餃子をごくんと飲み込んでから、

「え、家に置き去りにされた弟に、お土産がないの?」

 口をぽかんと開けて驚いていた。こいつも。また置き去りにされた可哀想な弟をアピールしている……。


 もう一人の謎客、ネクタイをしめた中年の男性は、やはり母が近所の飲み屋さんで知り合った人だそうで、名前は、さとし、と母が紹介した。

「はじめまして」

 私が言うと、

「いやいや、はじめてじゃないよ」

 もうだいぶ酔ったのか、ちょっと怪しげな口調でさとしさんが言った。クイズを出題したあとみたいに、こちらの反応を見ながら、にんまり笑う。「まさか、覚えてないの?」

「はい」 

 と私は答えた。きっとたいした縁ではないだろうとあまり本気で考えなかったけれど、実際たいした話ではなかった。この前、母親に直接電話をしたとき、おーい、こごみちゃん、こんばんは~、と急に替わった知らないおじさんだった。あの夜は、母と一緒に天ぷら屋さんにいたのだったか。

 もしかすると、母の新しい恋人なのだろうか。

 母の恋人らしき人には、これまでに何人も会ったことがある。

 地元のバーのマスター。スタジオミュージシャン。映画の録音技師。若い劇団員。本のデザイナー……。

 いきなり家に遊びにくるようになったこともあったし、家族の外出に、ふらりと同行していたこともある。私と弟がまだ小さいときからそうだったし、ばりばり思春期の十代のときにも、ずっとそういうことはつづいていた。酔っぱらった近所の知り合いから、よっ、恋多き女、とずいぶん失礼な声をかけられて、ありがと、と手を振って返すような母だった。

 それでも、母が連れてくるのは、決まって陽気でやさしい雰囲気の男の人だったから、その人が怖いとか、嫌だとか思った記憶はない。むしろ一緒にいて楽しいと感じたことも多かったくらいで、それは母の娘として、せめてもの救いだったのだろう。

 ただ真面目で慎重な性格の私は……というのか、いくら真面目で慎重な性格の私でも、というのか、とにかく私のほうから、

「お母さんの恋人ですか?」

 と相手に直接訊ねるようなことはしなかったから、本当のところ、その人たちが母の恋人なのかどうかはよくわからなかった。その不安定さは、たぶん長い間、私にとって目に見えないストレスになっていたのだろう。

 ふーん、恋人かな、きっと恋人だろうな、と私ひとりで勝手に納得して、それであとになってから、

「あの人、お母さんのなに?」

 念のため母に確かめては、

「え、教えたじゃない。友だち」

 と軽く流されてばかりいた。毎回そのパターンだった。

「でも、そんなふうに見えなかったけど」

「じゃあ、どう見えたの」

「彼氏とか」

「ふっ」

「ふっ、じゃなくて」

「ねえ、わらび、こっち来て。お姉ちゃんがみんなで恋バナしよって」

「げっ、きもい。無理」

 母はそんなとき、決まって弟を巻き込むのだった。

「姉ちゃん、俺、そういうの絶対無理だから。勘弁して」

「わらびは関係ない!」

 姉の私からすれば、三つ下の弟のことは、なるべくなら母の恋愛ネタからは遠ざけておきたい。守りたい、といった気持ちが強かったから、母本人の無神経な態度は信じられなかったし、弟の無邪気さにも、正直イラッとした。

 ただ、それももう昔の話だろう。

 さっきからチラチラと見れば、弟はくにちゃんとずいぶん親しそうで、そういえば母は彼女のことを、〈もともと〉自分が知り合った、と説明したのだと思い出した。つまり今では自分よりも、わらびのほうが親しい仲、ということらしい。母の連れてきた女子と付き合う神経は信じられなかったけれど、こうやって自宅で母カップルと弟カップル、男女二×二で仲よく飲み会をして過ごしているのであれば、私の気づかいなんて、そもそも無用だったのだろう。

 ずっと私だけ、ひとりぼっちなのだ。

「ドリフかけていい? ドリフ。ズンドコ節聴きたい」

 広いおでこを光らせた若いくにちゃんが言い、

「うん。でも、もう夜だから、音小さくね」

 それなりに常識はあるのか、アラフィフの母がにこやかに応じている。くにちゃんはCDを聴けるミニコンポに向かい、ザ・ドリフターズのゴールデンベストをかけた。

「なつかしいね、これは」

 母よりは少し年上に見えるさとしさんは言った。七〇年代初頭の歌謡曲は、自分にとっても、うっすら記憶にあるくらいだから、キヨミちゃんにはだいぶ古いんじゃない? と母に話しかけている。

「そう!」

 母は勢いよく応じた。目を線みたいに細くして、嬉しそうに笑う。それは母世代のモテ顔なのかもしれない。「最近は、誰もそこをわかってくれないの! 私は趣味で昭和歌謡に詳しいのに、単に世代だと思われて悔しい。私のリアルタイムは、七〇年代後半から」

「知らないって、そんな細かいこと」

 私は母をたしなめた。十代ならともかく、母くらいの年齢になれば、五年や十年は誤差の範囲だろう。

 踊りながら戻ったくにちゃんと入れ替わりに、さとしさんがふらふらと席を立ち、音系のあれこれの置いてあるあたりを、ふふん、ふふふん、と眺めている。そこにはCDの他にも、アナログ・レコードやプレーヤーがある。

「さとしさんて、なにしてる人なんですか」

 戻ったところで私は訊いた。自分としては、比較的うまいタイミングで質問できたと満足した。

「え……僕?」

 赤い顔をしたさとしさんは、さらに缶ビールをぐびっと飲んだ。これまでの恋人たちよりだいぶ地味な、大人しい印象だったけれど、少し照れたように笑うのは、やはり母が好みそうなタイプだと思った。「仕事は……トレーナー」

「トレーナー? なんの……ですか」

 私が聞き返すと、なぜか母と弟、そしてくにちゃんの三人が同時に笑った。

「……ポケモン」

「ポケモン?」

「そう。ポケモントレーナーのサトシです」

 急に名前がカタカナで聞こえた。三人はまた笑っている。

「え、そういうんじゃなくて。あ……これ、冗談ですか? 名前も仕事も」

「いや、名前は本当。ポケモンをやってるのも本当、スマホで。ポケモンGO」

 言いながら床に置いた鞄を探り、ようやく見つけた様子の名刺を差し出した。肩書きは大学の先生で、名前は漢字で悟だった。

 母の新しい恋人が、大学の先生らしい。

 適当でゆるい母と、学問の研究者のカップルだ。意外と言えば意外な組み合わせなのだけれど、自分の学校時代を思い返せば、勉強に真面目すぎる人というのも、ある意味で変人なのかもしれない。

「こごみちゃん、やってないの。ポケモンGO」

 自称、ポケモントレーナーのさとしさんは、にこにこと言った。だいたい五十歳過ぎに見えるさとしさんは、未婚なのか、離婚経験者なのか。それとも現在進行形で妻帯者なのか。

「やってません」

 私はきっぱり答えた。

「じゃあ、なにか他のゲームとかやるの?」

「それもべつに」

「やればいいのに、ポケモン。楽しいよ」

 母が口を挟んだ。世間で流行したのが二年前とは思えない。今がブームという口ぶりだった。「こごみちゃんはなんだか慎重なのよ。ゲームなんだから、とりあえずやってみて、つまんなかったり、飽きたらやめればいいだけなのに、ぶつぶつ、ぶつぶつ」

 そう言う母は世代でもないくせに、そのゲームをはじめてから、急にキャラクターを身近に、愛しく感じるようになったらしい。名前を覚え、グッズを買い、今も散歩がてらゲームを楽しむプレイヤーの一人だったから、その点でも、さとしさんとは話が合ったのかもしれない。

「近所に他にも仲間がいるのよ。師匠とかイケメン君とか、若奥さんとか」

「仲間って……なにする人」

「いろんな協力。ポケモンの」

「……ホントに」

 私は困惑して答えた。これ以上、地元の不思議な仲間を増やされても困る。「わらびは? もう全然やってないの? はじめは夢中だったよね」

「とっくに終わった」

 わらびは言うと、餃子をぱくりと食べた。恋人のくにちゃんが昭和歌謡を口ずさみながら、キッチンに缶ビールを取りに向かう。


 これが私の実家だった。

 物心つく前から、父はいない。そもそも私は自分の父親が、どんな人物で、なにをしている人だったのか、きちんと教わったことがない。

 訊くと、母が困ると思ったからだ。

 会いたいとか、会わせてとか口にしたこともない。親が身勝手なので、かわりに子供が顔色をうかがって、必要以上にいい子になる。

 自分の幼少期を振り返ると、典型的にそのパターンじゃないかとあらためて思った。

「泣いてるよ、姉ちゃん。なに泣いてんの?」

 弟のわらびが言った。

「泣いてなんかいない」

 私はハナをすすり上げた。

 相変わらずの散らかった実家で、ビールを飲み、満洲の餃子を食べ、珍しい母の手料理も味わい、よく知らない昭和の曲を聴き、どちらもお相手にははじめて会う、弟カップルと母カップルの微妙にいちゃつく様子を見ているうちに、急なさびしさに襲われただけだ。

 どうして。

 どうして私はここにいるのだろう。

 巣だ。ベランダに鳩が巣を作ったから見においでと呼び戻されたのだ。でもここで勝手な巣作りをしているのは自分たちじゃないか。

「姉ちゃんは酒飲むとこれだから」

 わらびは呆れたように言うと、ドラえもんのイラストが印刷されたティッシュの箱を、ぽんと軽く放って寄越した。「すぐ泣く」

「うるさい」

 私は文句を言いながらも、ティッシュを抜き取ってハナをかむと、ありがとう、とそのぶんのお礼は弟に言った。母はさとしさんとスマホのポケモンを見せ合っている。それを見ている私に気づいたのか、

「なに、どうしたの」

 と母は言った。

「べつに。どうもしない」

「そう?」

 とポケモンに戻りかけた母が、あらためて私を見ると、やさしく笑った。「どうなの、月島のテラスハウスは。毎日楽しくやってるんじゃないの? 誘われるでしょ、いっぱい」

「誘われない。ずっと部屋にいて、メロンパンのラスクかじってる」

 私はムキになって答えた。


 結局、その夜は五人でゆるい飲み会をして、夜更けを前に近所に住むさとしさんは歩いて帰り、酔っぱらって面倒くさくなったのか、くにちゃんは泊まると言った。

「じゃ、こごみのベッドで寝なさいよ。こごみはテレビの前でいいでしょ」

 母が勝手に言い、

「え。なんで」

 と私は言った。

「なんでって。いつもそうしてるから……」

 とバツが悪そうに母が口ごもる。

「じゃあ、俺がテレビの前で寝るから、姉ちゃん、俺のベッドで寝なよ」

 気がいいのか、なんなのか、冗談めかした弟の提案は、

「やだ」

 とすぐに断った。

「だったら、わらびとくにちゃんが一緒に寝れば?」

 私は主張して、その場が微妙な空気になる。そんなにおかしなことを口にしただろうか。

 家や家族というのは、しばらく離れると、決めごとがよくわからなくなるものかもしれないと思った。

「じゃあ、そうするよ。行こう、俺の部屋」

 くにちゃんに声をかけたわらびを、

「それはダメ~」

 母がやんわりと制した。自分はいろいろとだらしないタイプなのに、息子が彼女と一緒に寝るのは認められないらしい。ちょっと不思議。妙なところで堅苦しい。

「そんなら、母さんと姉ちゃんが一緒に寝れば?」

 わらびの第二案は、これもまた本気とは思えない。いつ見てもショップのバックヤードみたいに、モノであふれ返ったのが母の寝室だった。一体なにが入っているのか、天井近くまで積み上げられた箱だの、収納のための棚だのが動線をふさぎ、仕舞わずハンガーにかけっぱなしの洋服が目隠しをする。

「わかった」

 私はうなずき、最初の母の提案通り、自分のベッドをくにちゃんに譲って、テレビの前で休むことにした。ダイニングを兼ねたリビングには、そこくらいしか横になれるようなスペースはない。

「いやいやいや、私がそこでいいよ」

 恐縮するくにちゃんに、

「ううん。遠慮しないで。お客さんでしょ」

 と伝えた。ほんのり酔って、母と弟に対して拗ねた気分になった私にも、さすがにそういった分別はある。

 ひとまず自分の部屋で寝間着に着替えると、覆面レスラーのマットのある洗面所で顔を洗い、歯を磨く。大きなクッションを居間のホットカーペットの上に置き、それを枕にすると、運んできた自分の毛布にくるまって目を閉じる。

「おやすみ」

 母の声が聞こえたので目を薄く開け、

「おやすみ」

 応じると、それを合図のように居間の電気が消えた。

 ふいに心細い、ひな鳥のような気分になる。

 母に頼るしかなかった、幼い頃の記憶でもよみがえったのだろうか。

 それとも急ごしらえの寝場所に横たわって、まだ見ていない、ベランダの鳩の巣を想像したのだろうか。


 朝、目覚めると外はいいお天気だった。

 さっそくベランダへ出ると、空色のサンダルをぺたぺたと鳴らして物干し場の向こうへ進む。床置きされた室外機の陰をおそるおそる覗き込んだ。

 なかなか見えづらい位置だから、いつの間にか巣を作られたのだろう。うっかりした話だけれど、まあ仕方がない。

 そーっと身を伸ばすと、あった。

 風にでも吹き寄せられたように、ごっちゃり重なっている木の枝が見える。

 それが巣だった。真ん中に、予想したよりずっと生々しいヒナの姿がある。

 ひっ。私はあとずさった。まばらに毛の生えた、丸っこいヒナたちだった。

 あれが、私とわらび?

 やばすぎる。

 しかも週のはじめにメールで送られてきた写真よりも、たぶん大きくなっている……。


「どうするの、鳩の巣」

 近くのベーカリーで買ったシベリアを食べている母に訊くと、

「ん? まかせる」

 と笑った。

「まかせるって、誰に」

「こごみちゃん」

「無理」

 一番に起きて巣を確かめたまではよかったけれど、自分が駆除に不向きな人間だということは、その場でわかった。

 まず生き物が得意ではない。動く、と思っただけで腰が引ける。そのくせ可哀想に思う気持ちがどこかにあったから、母ではないけれど、そのまま放置してもいいか、と考えそうになった。

「ダメだよ、名前なんてつけたら。飼ってる気持ちになる」

 母の冗談とはわかっていたけれど、その点にも文句を言った。もっとも二羽のどちらがこごみで、どちらがわらびかは、私には判別できなかったけれども。

「親鳩もいるんでしょ?」

「いるよ。いなかった? 毎日、せっせとエサ運んできてる」

「へえ」

「偉いねえ、お母さんって」

「お母さんなんだ」

「知らないけど」

 いつものデタラメな調子で言うと、母はシベリアを美味しそうに頬張った。ベーカリーのおじさんオススメ、カステラで羊羹をサンドした懐かしい味、ということらしい。

 区役所の環境課の相談電話は、土・日・祝日は受けつけていなかった。保健所も同じ。そこまではさっきスマホで調べてある。

「管理会社の……」

 電話番号を訊ねる私を制して、母はゆっくり朝食をとっている。本当はこのまま、うやむやにしたいのかもしれない。

 やがて起きてきたわらびがくにちゃんと出かけ、母はようやく見つけた様子の、管理会社の封筒を私に差し出した。

「お母さんがかけたら?」

 私の提案に首を振った母は、せっかくスマホを手にしているのに、ゲームアプリを立ち上げている。本当に自分で処理する気は一切ないようだった。

 しかも言い訳でもなんでもなさそうに、

「あ! 今、ポケモンがジムに置ける!」

 本気の調子で言って飛び出したきり、いくら待っても戻ってこない。仕方なく私がひとり、管理会社に電話をかけた。

 鳩の巣の駆除は、区に相談しても自費での対応になるらしい。だったら同じだろうと、その電話で駆除業者を紹介してもらうことにした。

「こごみちゃん。親鳥がきたわよ~、ほら、あんたのおいしい朝ご飯買ってきたよ~」

 コンビニのレジ袋をさげた母が戻ったのは、たっぷり一時間は経ってからだった。


■『ジユウな母とオクビョウな私』まとめ読み

【まとめ読み1】ジユウな母とオクビョウな私 1話~6話

  • 藤野千夜 (小説家)

    1962年2月生まれの魚座のB型。 2000年に『夏の約束』で芥川賞受賞。 著書に『ルート225』『君のいた日々』『時穴みみか』『すしそばてんぷら』『編集ども集まれ!』など。

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