
【小説】ジユウな母とオクビョウな私 #32 恋する時間(2)
- 更新日:2019/11/07
- 公開日:2019/10/17
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#32 恋する時間(2)
たとえばなに? と訊かれれば、答えにつまるくらい、地味な用だとしても。
土曜日、天気がよかったので洗濯物をベランダに干してから散歩に出た。もんじゃストリートで人気のパン屋さんに寄り、アップルパイを買う。近くのスーパーで小さな紙パックのジュースも買うと、大きな橋のほうを目指して、ぷらーりぷらーりと歩いた。
それが私の用だった。
週に一度はそんなふうに、自分ひとりの時間を過ごしたくなる。
特に実家に一度帰ると、やっぱりだいぶ疲れる。
ゆっくり回復の時間がほしくなった。
今回はそんなに家事を押しつけられたわけではなかったけれど、それでも鳩の巣のことくらいで呼び戻された不満が残ったし、なにより母の相変わらずの適当な暮らしぶりと、知らなかった恋人(らしき人)との対面、全体に落ち着きのない、わさわさした街の空気に当てられてしまった。
昔なじみの太陽たちに会えたのは嬉しかったけれど、彼らの遊び方にしたって、いかにも地元住まいの仲間といった様子で、もしこれからも毎週誘われつづけたら……と考えれば、正直ちょっと気が重い。ふだん近くにいない私のことなんて、もちろんすっぱり無視してくれたらいい。
幅の広い、たっぷりの水をたたえた川の向こうに、高いビルが並んでいる。
光る川面を水上バスが行く。あちらからは、流線型の洒落たデザインの船が静かに進んでくる。
リバーサイドのテラスには、首とくちばしの長い、大きなサギが一羽たたずんでいる。最初見かけたとき、一体なんの鳥だろうと慌ててスマホで調べたのだった。羽の色からすると、あれはアオサギだろう。
テラスのベンチに腰をかけ、手を拭い、パイにかぶりついた。ストローを刺した紙パックのジュースを飲み、雲のずいぶん少ない、青い空を見上げて目を細める。
私の育った界隈とは、同じ東京でもずいぶん景色が違う。
暮らしの場に、こんな息抜きの風景があるのが新鮮だった。愛しくても、ごちゃっとした街中で育ったせいだろう。
もう一度手を拭うと、今度はバッグからクロッキー帳と筆記具を取り出した。子供の頃から、絵を描く時間は大好きだった。図画や美術の時間、先生や友だちにもよく誉められたし、母にも認められた。イラスト部に入ったこともある。将来は絵に関わる仕事をしたい、と思った時期もあったはずなのに、やがて忘れてしまった。
……どうしてだっただろう。
(つづく)
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■ジユウな母とオクビョウな私|バックナンバー
第27話:ベランダの鳩(27)
第28話:ベランダの鳩(28)
第29話:ベランダの鳩(29)
第25話:ベランダの鳩(30)
第31話:恋する時間(1)
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藤野千夜
(小説家)
1962年2月生まれの魚座のB型。 2000年に『夏の約束』で芥川賞受賞。 著書に『ルート225』『君のいた日々』『時穴みみか』『すしそばてんぷら』『編集ども集まれ!』など。
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